桑名蛤料理の伝統を受け継ぐ

網元の血統「魚重楼」

魚重楼創業者、水谷重寿計が蛤料理を始めたのは、 明治34年のことであります。
それ以前は揖斐川河湾、桑名赤須賀村にて幕末の頃まで網元 として魚貝類、特に桑名の産物である蛤、海苔、白魚などの取り引きを行ない、江戸時代には桑名藩へ海産物を運ぶ御用を賜り、苗字帯刀を許されておりました。

この頃は、魚重という屋号で桑名の地に親しまれていました が、明治の中頃現在の地に移り魚重楼と称する料理屋を開業致しました。以来、桑名の特産物、蛤を中心とする桑名蛤料理の伝統を純粋に操守いたして今日まで代々、そののれんを守り続けてきた次第です。

揖斐、長良、木曽の河口にて採れる「地の蛤」に「旬のもの」 をあしらった名物蛤料理、魚重楼ならではの伝統の味覚の数々 をどうぞ存分にご賞味いただきたいと存じます。

桑名焼き蛤

「はまぐりの 茶屋は同者を 松かさに いぶせく世話を やく女ども」

桑名はまぐりについて

「その手は桑名の焼蛤」とは。もともとどういう意味だったのでしょうかとよく人々に聞かれます。

江戸時代旧東海道が繁栄した頃、ここ桑名は伊勢路の玄関口42番目の宿場町として、木曽三川の河口の港町として栄えました。
十返舎一九の東海道中膝栗毛に
「…お腹がすいて気が晴れて、人にはどんどと笑われて、尻のほこりをふきはらう、その手は桑名の焼蛤」
とあるように、蛤の茶店は旅人人気の的で、なかでも魅力は、茶店の茶屋女にあったようで、茶店の女に甘言でだまされまいというところからこのシャレ文句ができたようです。

広重の描いた七里の渡は最も古い記録で、1544年「宗良日記」に記されており、名古屋の熱田の宮から桑名を結ぶ海上七里の船着場があったところです。

ここは揖斐川、長良川、木曽川の三大河川の合流地点であり、満潮時には伊勢湾からの海水が上流に満ちることで海水と淡水が混ざり合う所で、これによりここ桑名が国内最高の蛤の繁殖生育地となっております。

七里の渡し

七里の渡し


はまぐり

はまぐり 七里の渡し

桑名産のおいしい蛤。

ここ桑名の浜では味、姿、色全てにおいて良質な蛤が採れております。最近では韓国産、中国産などの輸入蛤が巷では出回っておりますが、魚重楼では桑名産の良質な蛤にこだわり、創業110余年の伝統の技で心を込めて調理した蛤料理を皆様にご提供しております。

広重旅日記の一節に、「名物やき蛤にて、一酌をたのしみに、潔く、潔く桑名へつく。早速茶店に腰をおろして、一盃傾けながら賞味す。誠に珍味也、今宵はこの宿に泊り、明朝海路宮へ渡るなれば、ゆっくりと腰を据る。旅籠の食膳にも蛤の料理を見る天保元年8月12日広重しるす」とあります。

十返舎一九東海道中膝栗毛の句にも…

魚重楼